2017年04月26日

夢 第八夜 古本屋

古いインクと紙の匂いが カビ臭い空気と混ざりあって

狭く薄暗い店内に満ちていた

客の視線は もうかれこれ一時間近く 一冊の本にそそがれている

古本屋の店主は 膝の上で 何やらいじっているが

時折 作業の手を止めて 眼鏡越しに 客の様子を伺っている

ひょろりと背が高く 痩せたその客は 

ハンチング帽を被っているので 頭髪からは判断できないが

足腰はしっかりしているものの

頬 喉元 手の甲などの肌からみると 八十歳近い老人だ


店主は ポケットから懐中時計を取り出すと チラッと文字盤を確かめ

「お気に召しましたかな?」と 声をかけた

客は その声にようやく顔をあげた

「やっ これは失敬 ずいぶん長いこと 立ち読みをしていたようだ

すっかり夢中になってしまって

あの これは この本は … 」

「えぇ それはあなたの本です

いくら読んでいただいても かまいませんよ」

店主は椅子から立ち上がると ゆっくり客に近づきながら尋ねた

「どこまで読みましたか?」

「この店に入ってきたところまで」

「なるほど では 続きは 明日にしましょう」

そういうと 右手を客の手元に差し出した

少し残念そうな表情で本を閉じると 客は素直に応じた

店主はそれを受け取ると 先ほどまで座っていた椅子にもどりながら

客に背をむけたまま

「向こう側にいれば 永遠に二十歳の青年でいられたのに」 ポツリと呟いた

「いやぁ 疲れました もう十分です

どうやら 私に残されたページは あとわずか

これで楽になれる ようやく楽になれる

そう思うと いま 心はとても安らかなのですよ

ただ 一つだけ気がかりなのは … 」

席に戻った店主は 次の言葉を促すように 客を見た

「私の身代わりとして 犠牲にしてしまった 若者のことです」

「あぁ あの蕎麦屋ですか 彼ならいま 鏡の中

毎日 大好きな蕎麦を打って 結構楽しく生きてるようですよ」

「鏡の中 の蕎麦屋 ですか」


その時 客は 店主の後ろの壁にかかった 写真に気がついた

四つ切サイズの モノクロ写真で 二十代から三十代の若者が 数十人写っている

前列中央には 若かりし頃の自分が 

右手の拳を振り上げて 大きな口を開けて何やら元気に叫んでいる

その隣には 彼よりだいぶ背の低い 顔の造作が下半分に集まって

まるで福助人形のような顔をした男が

目と口元に 不気味な笑みを浮かべ こちらを見つめている

白い和帽子を被り エプロンを着けているところをみると こいつが

身代わりになって 鏡の中に入り込んでしまった 蕎麦屋らしい


「明日 また いらっしゃい」

名残惜しそうに店を出ていく客の背中を見送り

自慢のグレイヘアを手ぐしでかきあげると

店主は 再び 手元の二眼レフカメラのレンズを磨き始めた



石臼碾き手打そば 「 百日紅 」



posted by 蕎麦屋の女将 at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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